日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2025/1/31)
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- Опубликовано: 4 фев 2025
- 2025年1月31日(金)
【旧約聖書】
主よ、私の口があなたの栄光を告げ知らせることができるように、私の唇を開いてください。詩51:17(ド)
【新約聖書】
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。使4:20(協)
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「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2025』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2024年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
*ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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絵本作家に五味太郎という方がいます。五味さんは子どもの学びについて、『大人問題』という書籍のなかで、このように書いています。「いちばん必要なのは『わかっている』人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも『わかろうとしている人』です」。教育というのは、わかった人がわからない人に教えるものと考えられていますが、そもそも、人生、わかったという境地に立てる人などいません。ですから、「わかった」気でいる人の話には要注意だということです。むしろ、分かろうとしている大人が近くにいて、共に考えてくれると、子どもは一歩前に進めるのです。
そうしますと、「イエスの復活」というのは、そもそも分かるものではありません。分かろうとすることの方が大切なのです。使徒ペトロとヨハネは、宣教活動のなかで、この復活を宣べ伝えていたために、エルサレムで捕らえられてしまいました。そして議会での取り調べにおいて、本日の御言葉のように、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と証言するのです。
気をつけたいのは、ペトロやヨハネ、そしてパウロも、イエスの復活について、論理的に説明するのではなく、復活を見たり、聞いたりした体験を語っているということです。その体験を通して、復活ということを分かろうとしようとしているのです。例外的に、パウロはコリントの信徒への手紙I、15章から復活について詳細に論じていますが、これはコリント教会のインテリたちが、死者の復活についてしつこく問うので、それに対して答えているという流れになっています。本来であれば、パウロはこのように復活を解説はしたくなかったでしょう。旧約の詩人は、このように歌っています。「主よ、私の口があなたの栄光を告げ知らせることができるように、私の唇を開いてください」ここでの「あなたの栄光」は、死を超えた命、復活の命のことです。それを体験した者は、それを話さずにはいられないのです。
礼拝の説教では、イエスの復活のことが説かれますが、それが分からなくても心配する必要はありません。むしろ、「私は復活について分かりました」といわれると、困ってしまいます。教会に集う者は、復活について分かろうとしているのです。分かろうとしながら人生を歩んでいるのです。それが私たちの信仰です。使徒たちがイエスの復活を見て、聞いて、それを約2000年もの間、宣べ伝えてくれたことを受け継いで、こうして今に至っています。死者の復活を分かろうとすると、人生の見方が変わります。考え方が変わります。それは、細かな迷信にとらわれることのない、自由な道を歩むことができるのです。その気づきこそ、救いにつながっているのです。その救いを体験したとき、私たちもまた、見て、聞いたことを、話さずに入れられない者へと変えられるのです。
日本キリスト教団六ツ川教会牧師 桐藤 薫